新田 論 氏の「心の旅の案内書」より http://www.satoshi-nitta.com/ 心の誕生 心って いったい いつごろできたのだろう 太古の人類は心を持っていたのだろうか その前に、動物には心ってあるのだろうか 善い悪いの判断は出来ない、それは人間が勝手に決めたこと 好き嫌いはありそうだ 人間の好き嫌いには ふたつのパターンがある 考える好き嫌い と 想う好き嫌い 動物の好き嫌いは 想う好き嫌いだけ 考える好き嫌いが心で 想う好き嫌いは本能のしわざ やはり 動物には 心がなさそうだ 考えるのが心で 想うのは心ではなく本能の発露なのだろうか 想うのも心のようだ 考えるのは頭だ、想うのはハートだ 心は頭にだけあるのだろうか それなら心は知性 心はハートにあるのだろうか それなら心は感性 心は知性なのか 感性なのか それとも両方なのか 心を知性だと考える人は神を知らない人 感性も心だと感じる人は神を知っている人 心は神を感じる入り口、神を知る出口 その出入り口で人間の心が誕生した 人間の根 植物には根がある。根は地面の下に隠れて、目立たず地面の中にある水分や栄養分を吸い上げて、幹、枝、葉、そして花の実まで送っている縁の下の力持ち。 水分や栄養分は土中にある。それは地球の一部すなわち宇宙の一部。 動物にも当然、根があります。植物の根が土中に隠れて外から見えないように、動物の根も外からは見えない。だけど、生命エネルギーはそこから送り込まれ ている。 人間が母親の子宮の中で生を受けて、300日間生まれてくる子供は母親の子宮内で育つ。その間子供と母親をつないでいる命綱は"臍"です。 子供が生まれて、母親から離れるとき、母親とつながっている臍の緒が切られる。自立のはじまりです。子宮内にいるときは臍の緒を通って生命エネルギーが 母親から子供に与えられているから、呼吸もしなくてもいい。 しかし、臍の緒が切られて、母親から自立したら、自分で呼吸をしなければならない。 子供が生まれて最初にすることは、泣くこと。だが本当は泣いているのではなく、自分で呼吸をしようとしているのです。だから生まれても泣かない子供は人 工呼吸をしてやらないと死ぬ。 動物の根は"臍"。だから、生まれて母親から離れると自分で生きるエネルギーを供給しなければならない。生きるエネルギーは肉体へのエネルギーとして口 から食物を、命へのエネルギーとして生命エネルギーを息という容器で最終的には、臍のところに供給されることで、人間の生命は維持されている。 だから、基本的に呼吸は臍まで届く複式呼吸をしないと、臍まで届かない。 ところが、子供のうちはそれが自然に出来ているのだが、成長すると共に、複式呼吸が出来なくなる。胸式呼吸になっていく。根である臍まで息が届かない と、植物の根に水分や栄養分が与えられないと、植物本体が枯れて死ぬように、人間も同じです。ただ動物、特に人間は物体としての肉体のレベルと、命とし ての精神のレベルとに層別されています。 厳密に言えば植物にも鉱物にも精神のレベルはある。エーテル、アストラルという精神レベルがある。だから植物にも心を込めて話し掛けてやると、反応する。 ただ人間の精神レベルはメンタル・レベルまであるから、臍まで届かない呼吸をしていると、メンタル・レベルの精神が栄養不足になる。食物を供給していれ ば、肉体は維持出来る。この状態は三才から五才ぐらいから、親、特に母親の躾という名の下での条件ずけによって精神の栄養不足がはじまる。すなわち記憶 の開始である。ほとんどの人間は三才から五才以前の記憶はない。それは生まれたときには宇宙から無条件に生命エネルギーを直接受けているので、自然に臍 まで届く複式呼吸が出来ているが、条件ずけされると、体への指令塔が頭脳になるため、そこで色づけされてから、生命エネルギーが体の各部に運ばれるの で、根元の臍まで届ける余裕がなくなる。 飢饉で苦しむ国に世界から物資が送られてもほとんど途中で抜かれて肝心の飢えに苦しむ人達には十分の一も届かないのと同じ。子供の精神は無垢だから、こ の世での生きる術には長けていない。だから親は躾をする。処世術を教える(押し付ける)。そうすると、肉体と精神との間にアンバランスが生じる。それが 悩みや、妬み、欲望となって大人になって行く。そしていつのまにか、自分の根の存在さえ忘れていく。 まず、根の再発見から始めなければならないことを認識することが大事です。 Copyright(c) 2006 Heisei-Seminar-Tokyo All rights reserved http://nishiura.tv/heisei-seminar-tokyo.htm
by seikof1
| 2007-09-30 05:09
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